2023年5月30日火曜日

Hi8テープで「半生のカンファレンス」を

このところ、やや寝不足がちである。夜勤をやるとどうしてもずれ込む、それを修正するに2日は要す。その繰り返しでもう何年も来ているから、これから20年ほど続けていくのであれば、より一層な自己管理が必須。酒を断った昨今、長い夜をどうしても趣味でもて遊んでしまうから、、どっちがいいやら。経済的にはやはり飲まない方が趣味に時間が持てる、夜は長いかな隠居へのアプローチ。



死蔵しているHi8テープが何本かある。何回引っ越ししただろうに、これだけはちゃんと箱に入れ持ち続けてきたもので、20数年前の貴重?な自分や友人の記録である。本来、「記録魔」である自分、こうしたものを後年見たら楽しいだろう、、と撮りだめていたのだ。が、Hi8デッキは90年代の後半には壊れ、ハンディカムも壊れ~でこのカセットだけが残ったのだ。こうした物は大抵捨てるか、どこに行ったか分からなくなるものだが、自分の場合にはそうはならない。


親しくしてもらっている、T先輩がHi8のビデオカメラをまだお持ちとの事で、お貸しいただくことに。T先輩はアメリカ在住時に購入したものでCanon製でいる、あちらでは「COMCORDER」カムコーダー、という名称で呼ばれているとか。すっかり「ハンディカム」かと思っていたが、それはSONYの商標か?T先輩も90年代中期~後半にあちらで使われていたに違いない。海外では日本製品が数年遅れて出まわっていたようだ(と、いうのも親戚が日本に帰ってきた際に、アメリカ人に頼まれ当時ヨドバシカメラでラジカセを数台持参し、帰国していた)ダウンタウンでは停めてある車の中、見えるところにラジカセを置いておくとガラスを割って盗まれる、と話していた。いまは逆になることは無いのだろうが、Made in Japan旋風の当時はそんな乗りだった。
早速、カムコーダーに死蔵していたHi8テープをガチャリと挿入。ドキドキしながら画面を待つ、、と接点がくすんでいるようで、粗い画像。接点復活クリーナーで磨き、数分置いたのち再生ボタンを押すと、、、出た出た!!1996年の映像である。まず自分の発言や動作が極めてうざい(笑)当時仲間内ではやっただろう文句を、何度となく繰り返し、笑いに持ってゆこうとするのが見ていて苦しい。と動きが、底知れね活力ゆえに飽和状態。江頭2時50分のような所作やリアクション、めちゃイケが流行っていたとはいえ見ていて辛い。、そして肌艶がやたらよく、頭髪は真っ黒、目はグリコ森永の「キツネ目の男」のように釣り上がっていて、やたらに眉毛が濃い(笑)「若さ」である。
あのテンションを通し映る自分と、現在の自分を比べるに(比べる必要もないが)老いたが、今の方が安定しているな、と。若いが実に不安定な、綱渡りをしているかのような自分でいる。昨今の新たな趣味である「園芸」なんて微塵も感じさせない、ローギアで走り続けているあの頃、あの勢い。それが懐かしく思う人が多いかもわからないが、そうしたときに「新たな物」が生まれるのもわからないが、、正直自分は「現在」がよろしい。ビデオを見つつそう気づいた「半生の自己カンファレンス」は、今後に有効。まだ「途中」なんだなと。


後半、18歳の自分がギター片手につま弾きながら語る「なぎら健壱」のモノマネにはああ赤面!!、、けど少し似ている(笑)早速Hi8テープを当たれば、、街中のリサイクルショップで10円で売りに出ている!無用の長物なのか、これも時代。


2023年5月28日日曜日

ああ「煩悩」、SONYのソナホーク

SONYのラジカセをいじくっている。1991年のSONYソナホーク(初代)と、1994年の後継機の2台。いまさらラジカセなんか必要ないといえば無いんだが、、当時の音源を当時の機種で聞くという醍醐味?を40歳と少しの沿え花として。


当時は中学生でいたが、高嶺の花でいた。お年玉で買う、という「あるある」は都内在住の親戚、両祖父母と、しょっちゅうあっているが故に期待できなく、集まっても1万円ぐらいでいた。ちょくちょく貯めていたのだが、、時期を逸することが多く当時最新の機種、それもSONY製品となると5~6万はして中学生では手が出なかったもの。致し方なく、中野ブロードウェィにあった安売りの電化製品ショップにてaiwaのラジカセを買う、これがまた「あるある」でいて手が届かなく妥協する「aiwa」,友人に聞けばその決断に至った者も多い。コンポーネントシステムでは5枚CDが入る、CDチャージャー、しかもあれはスケルトンでいて、CD何枚格納されているかわかるものでいた。友人が持っていて中の歯車がカラフルで実に憧れたんのだが、オーディオ好きの父親に「あれはやめとけ、壊れるから」と一喝されたことがある。事実、それを使い続けている奴は、高校になった時の友人SATOHでいて、それでハイスタンダードの「夢のカルフォルニア」を聞かせてくれたが確かに読み取りが不調だった。


話はそれたが1万2千円ほどでaiwaのラジカセを当時購入。横長のエクレアのような形状。Wカセット・CD・AM/FMラジオとシンプルなブラックボディだった。それで何を聞いたか記憶に薄いのは、親父のおさがりのジャンクのコンポをメインで使用していたからだ。CDの音飛びが半端なくAPPLEのビートルズのCDアルバムの、「ミッシェル」を聞くたびに読み込みエラーが起こり、あの今にも止まりそうな間奏がバグるのが、心霊現象のようで怖かった。不調だからくれたのでいて80年代の終わりごろのSONYリバティだったような気がする。父親がSONY押しだったのもあり、時代的にもやはりSONYのラジカセでなければならない、aiwaを買ったけどこれじゃだめだ、、なんて勝手な背徳心もあり、蔑ろにしたに違いない。その後も、ヨドバシカメラやさくらや、へ行っては大量のSONY最新カタログを集めて廻る、というようなことを13.14歳辺りしていた。結局当時はSONYは買えず。


、、それから30年あまり、ふとあのカタログのラジカセを自分の物にしたくなり、「」に従い手に入れたのがSONYソナホークシリーズなのだ。初代は台座(ジャイロ)があり、ラジカセ自体が聞き手の方向に動くという代物!後継機は廃止になる(おそらく、そこまで横着な奴はいなく意味がなかったのであろう)この手の時代のラジカセは「バブルラジカセ」と呼ぶらしい。確かにこれを携えてガーラ湯沢に行きたくなるような心境か、船橋のザウスか。CDは調子がいいんだが、テープが不動。モーター音がすることから壊れていないのだが、テープのベルトが切れているに違いない。実際開けてみると、30年経たラジカセのテープ部位のゴムベルトが切れている、というか溶けており交換が必要。ほとんどの原因がこれらしい。ソナホークはカセットが上部に開閉式であるし、横より埃等の侵入も少ないからかえらく綺麗でいる。が、ゴムは劣化品、Amazonでも交換用ゴムがあり購入、交換作業へと至る。、、が、なかなか基盤の隙間は狭く、凹凸も激しくモーター部位のリールにひっかけるのは困難。、、まだゴムを張り替えられていないが、再生を夢見て日々夜中に奮闘中。(治ったら第二弾で)

2023年5月25日木曜日

「通せば天国」・野坂昭如のEP盤

職種柄、急遽コロナワクチンを受ける運びとなる。徐々にだが、じんわりとまた感染し始めている感あるが、あまり危機感なくそれ故に、そのための結果か。もう同じ事ここ数年繰り返しているので、何とも感じなくなりつつあるのも因果。
大正期のスペイン風邪のそれとよく比較されるが、今までの生活に戻るには数年は要した、いやまだ途中なので要するのだ、が正しいか。
はて、何回目になるのであろうかワクチン接種。夕食時には接種したのも忘れるぐらい無症状だったのだが、夜半・寝返りの際に打った左腕が鈍く痛い。「キタ、、、」とつい呟いたのだ、このワクチン例えるならば比重の重い、ドロリとしたものが浸透してゆく感じでいて、水と油、無理やり混ぜ合わせるような、フレンチドレッシングのあの「層」が脳裏に浮かぶ。
実際、朝目覚めたならばかったるく、むっくりと起き上がるも映画「風の谷のナウシカ」、早すぎた「巨神兵」のような感じ。「、、ああ」と一言呟いた。が、寝起き限定感あり、いつも通りに事すませば臨戦態勢?と行かずも、それなりに体は動いてくれたのでいた。

相変わらず図書館の視聴覚資料ばかり借りてきているのだが、、もうかれこれ5,6年は視聴覚資料を借り続けている。区によって貸し出す枚数と資料内容には差があるが、、職場の先輩HOLLY先輩の話では「文京区」の視聴覚資料が最高だ、と語っていた。かなりマニアックなものを取り揃えているようで、土地柄と大学が多いのも関係しているようだ。自分が学生時代によく通っていた「新宿区」の視聴覚室もかなり、色々な楽曲を扱っていて90年代中頃にして「中津川フォークジャンボリー実況」や「URCレコード」、初CD化が話題になった「音蔵」シリーズ、1500円シリーズなんか、時代背景と重なり「団塊の世代が40~50代に差し掛かったあたり=振り返り」の時期でいたのだろう、ことのほか「初CD化」音源を沢山扱っていた。
先に述べたように市区町村では扱う資料に差があるが、、練馬区は15枚も一度に貸してくれて、尚且つかなりの視聴覚資料を有している。と、意外に残念なのは杉並区、武蔵野市、世田谷区、と貸し出し枚数は1回につき4~5枚でいて、資料内容も乏しい。カード造ってもらえる基準もまちまちでいて、東京在住ならばOKとか、仕事で来ているなら(中継地でも)OK,とか隣接区ならばOK,などなど。都心に行けば行くほど器がでかくなる感あり。なかには市区町村居住でなく断られたことも、、、。図書館の視聴覚資料は一つの区内の、扱う図書館にばらけて点在しているため予約で借りるのがよろしい。思いもしない音源があったりするからやめれない。(自分的に発掘した音源は1992年あたりに出た、カルトGSコレクション~〇〇レコード編~とか、ブートレッグ(海賊盤)シリーズなどなど。それらを、テープに録音してみたりとやってることは90s。)


今回はビーチボーイズの1964~1965年デモテープ音源のCD、なんか見つけてウハウハで帰宅途中、行きつけの古本屋。またLPが出されているが、いかんせ40年以上前のLP、あのLP袋はすすけているものが多く、あまり触りたくないのが実情。しかし、見なければ気が済まないところ、埃だらけのLPを見てゆく。アルバムLPはビートルズの物が数枚あったが「レボリューション」と「ホワイトアルバム」、コレクションシリーズとあり再販ものか、帯もない。EPコーナーすでにだれか見た後でいて、あまり期待していなかったが前回に無かった野坂昭如の1977年頃のシングル「通せば天国/古い時計」を発掘、捨て値100円!(笑)


コミカルな楽曲だが、最後の「天国~~~!」と声を裏がえしながら歌う野坂、かなり興奮状態を感じ取れ「チューインガム・ブルース」の末尾と重なる感あり。先日、野坂昭如の奥様、野坂暢子氏が書いた「リハビリ・ダンディ」を読んだだけに、77年にはまだまだ現役時代だった氏に胸が熱くなるところ。たしか「通せば天国」は酒のCMだったような、、当時。
いつも歌手・野坂昭如は自分を楽しませてくれる。針を落としニンマリしていたのだが、痛む左腕などどこ吹く風、副反応のそれを吹き飛ばすだけの音源でいた。


2023年5月23日火曜日

人生はあっという間

 人生はあっという間、、、諸行無常。この前18歳の体で、さてこれからどんな未来を、将来を歩もうかと胸躍らせる青年時代の夢を見た、そしてさめたら40代過ぎていることに気が付き、覚醒からの落胆、メランコリーに5分ほど布団の上でうなだれていたのだ(笑)考えてみれば人生80年としても半分は終了しているわけで、そう思うのも無理ないのだが、なんとなく限られた時間を無駄に過ごしてはいないかと、懐疑的になる。こんな話ばかりしているから、友人からは「暗い」という指摘を受けることがある。確かにあまり前向きでないのだが、どうも熱くなれない、何かに「はまる」ということも良し悪しでいて、「はまる」にしても経済力と体裁が立ちはだかるもの。無理して「はまる」事無くとも、この氷河期世代を乗り切った?半生を糧に、残りの人生を90sな羅針盤で行きたいと思う。


俄然体調が良いのは何故だろうか、言うまでもない酒をやめたこと。酒もやらない・たばこもやらない、それを個人的に「健さん化」と自分は呼んでいるが、健さんの真似をして朝はグラノーラに牛乳をかけたものなんかを食している。もう後半戦は体に悪いことはしてはいけないのだ、、昨今よくそう思う。この状況をいかに日々維持してゆくが、40代からの課題である。ことのほか同年代の男性たちの体形の崩れ、は20~30代の「なれはて」感あり。頭髪の有無は致し方なくも、肉体的には「もうそうしていてはいけない」という現れだろう。かるく飢餓状態であるほうが、感情的にもあまりならないし、経済的、衣服にも優しい。(が、メンタル的にはややネガティブ思考になる)これからは自身の意志優先より「体」優先で、事起こすときの尺にしようと考えている。



そんなことを一人ブツブツ言いながら、初夏の日和の青梅街道。仕事帰りに西荻モンガ堂へと立ち寄る。別に欲しいものなくも、ふらりと立ち寄り積まれた書籍や、古本の香りをかぐのが好きなのである。よくよく見ると新入荷や、配置がかわっていたりする。そんな折、前回は無かった「つげ義春 初期傑作短編集 第1~4巻」を見つける。雑誌時代、貸本漫画時代の短編集をまとめたもので、つげ義春らしい「ひねり」のきた、そして「サイコパス」な作品が多くもっと読みたいと思っていた折の出会いでいた。こうした出会いはチョイチョイあるので、普段は使わなくも、幾らか持ち合わせていなくてはならない。まさにつげ義春の「300円」保持の世界感である。買ってしまったならば300円は無くなってしまうも、「何かあったならいつでも使える」という安心感がお守りなのである。氷河期世代?の自分は同調できるが、やや物欲が多いのが難。



考えてみれば15.16歳からほとんどライフスタイルが変わっていない。古本屋は昔から常にそばにあったし、いまだ中古衣料品を着ているわけで、、しかし恥ずかしがることは無い、「身の丈に合った生活」というものが一番、快適に過ごせる訳なのだから。


2023年5月19日金曜日

はじまりは「ジーンズ・メイト」

相変わらず心くすぐることを探している40代、擦れた心にヒシヒシ来るものはなかなか無く、まさに釣り堀の擦れたマス状態でいる。
と先日、懐かしくもジーンズメイトのマグカップを見つける。ああ!ジーンズメイト、中学校の自分に足しげなく通い、まずメンズ服飾の手ほどきを受けるのが「ジーンズメイト」なのである。ジーンズメイトでジーンズを知り、アウターを知り、やたらジェームス・ディーンの後ろ姿のパネルばかりを目に焼き付けてしまう(店じゅうそればかり)、ジーンズのブランドを知り、アメリカの下着会社(ヘインズ)を「ハーネス」と呼んだりする。かならず新聞チラシが入り、林間学校はワンポイント指定の私服ゆえに、同じく男子達、おなじワンポイントのシャツを着ている。よくわからないので、とりあえず「ジーンズメイト押しがスタンダード」となるのだ、、。
こずかい握りしめて、走る駅裏のジーンズメイト、新宿区には「US VANVAN」というジーンズショップもあった(いまだに既存!)ここはワンランク上!?のジーンズショップでいて、簡素なたたずまい、武蔵野エリアではまずみない量産体制の店舗である。当時ここもチラシが入ることがあって、「US VANVANにいってなかったら、ジーンズメイト」な流れがあった。手軽すぎる「アメリカン」が90年代前半にはまぶしく、そして小銭で気軽に買えるメンズ服飾でいたのだ。やはりUS VANVANも、飾られているそれの、VANVAN押しを購入するに至るものでいて、、ジーンズメイト愛用者と同様に「かぶる」という同じ現象がおこるのでいる。
友人はためたお金で、ホワイトのディッキーズが欲しいと、買いに行くから付き合ってくれと1995年。裾上げしてもらい、うれしくて彼、履いて帰りますとそのまま腰履きで自転車またがり、坂道で転倒。せっかくのホワイトのディッキーズが血に染まる、ということがあった。また、自分は小脇にジーンズメイトの袋を抱えて登校。おしゃれな同級生に「おまえ、それジーンズメイト?恥ずかしくない?」なんて鼻で笑われたことがあったが、これっぽちも恥ずかしくなかったもの。90年代前半は「ジーンズメイト」は10代の教祖様であったわけで。


、その後、世はリサイクル循環時代が到来し、市町村がリサイクルセンターなんてものを出し始めたり、フリーマーケットが開催されるようになったのもこの頃で、さらに安価で、区が集めたリサイクル衣料から服を探すようになった。、90年代中頃は、区のそのような店に行けば、自分たちの親たちが若いころ着ていた、タイトすぎる60~70sなウエアーがたくさんあった。しかも捨て値でいてVANだのJUNだの、、そうした衣料品をみて親世代のカウンティカルチャーに興味を持ったのだが、、自分はストリートとは真反対な路線を行くこととなる。
いまはだいぶ出なくなったが、VANなんか縫製が良かったから、コート、ジャケットはまだまだ着れるものが多く、(シャツ、スラックスは消耗品で当時からほとんど無かったが)高校時代にはよく着ていた。このVANとの出会いで、またいろいろと派生していったんだけど、原点を顧みるとやはり起点は「ジーンズメイト」なのである。
昨今、だいぶ姿を消してしまったジーンズメイト、大衆的なジーンズショップもだいぶ見なくなってしまった。「お~~、ゴオマリサ~~ン」というあのブラット・ピットのうだるような歌声を聞くたびに思い出す、洗礼の日々、ジーンズメイトをリスペクト!




2023年5月16日火曜日

「陶枕」を求めて、休日。

数日ぶりに晴れ、ここ数日の高湿度を飛ばすべく、ありとあらゆるものの湿り気を払拭したく、すべて外に出したのでいた。乾燥機は乾燥しているが、なにかが違う、根っから乾いていないような気がする、紫外線ありきの洗濯乾燥は、生地が傷むかもわからんが所詮中古衣料なのでいる。古い人間、傷の二つ三つあった方がよい、スタジオミュージシャンの「ショーグン」が歌っていたが、それでいいのだ。(と、いいつつも黒いTシャツは陰干し))
全てを終わらせて、クロスバイクにまたがるもポタリングへ。刺すような日差しが心地よい、もう途中でのコーヒー、アーモンドナッツの時期は終わり盛夏にはガリガリ君と麦茶の時期に向けて移行中。途中行きつけのリサイクルセンター、ここで前回気になっていた「陶枕」(とうちん)が気になっていて、再度訪問すると、、まだある!
 
陶枕」は文字の如く「」でできた「」でいて、高枕、映画で見るようなフカフカすぎる枕、低反発枕、と枕にも色々あるけれどこの「陶枕」は枕の極みであろう。セトでできた枕なんて、ゆい髪の女性じゃあるまいしシェードの入った後頭部にザらりと、その冷たい陶器の触れ具合がたまらなく「これから」じゃないか!夏に向け。「これをください」、小脇に抱えてお会計。


そんなんで武蔵野市を行く。自分の通常平日の散歩道であるが、もう10数年は往来しているエリア、田畑も多くそこに新築の家が建ち続けているが、まだまだ畑もある。刺す日差しに千川上水はいつも流れを変えない、真冬の日も春の日も。


春先、桜が咲く辺りには、春の蝶「ツマキチョウ」が弱弱しく飛び、観察できるがいまではキャベツ畑、のモンシロチョウが乱舞。しばらく見ていたがかつて昆虫写真家の海野和夫氏がとった「交尾拒否行動」の写真、そんなポーズをとるメスがいて、その周りをオスが飛び交う。おっさんが花や木に敏感になる、30代中ごろから急速にそうした感覚に目覚め、「ここはパライソかもしれぬ」そう呟いた午前10時ごろ。


夏のズボンが欲しく、何軒か武蔵野市を廻る。もちろん新品なんかでは買わず、中古衣料で十分。と、Papasのオリーブグリーンのパンツを見つける。Papasはおじいさんが着る、ややハイブランドなイメージだが、40代には早い??いや、意外にカッコいい。リネンのスーツとか、FIATのアバルス・モチーフの開襟シャツ、とかミドルなダンディのオフコーディネイト、といった感があるが、、。いずれも中高年男性用?であるからかサイズがでかいものが多く、ゆったり履けるものが多い。考えた末に購入。
吉祥寺を抜けて善福寺、西荻窪と行き当たりばったりな感じで東京の「西」を遊ぶ。先日1983年のNHK特集「井伏鱒二の世界」をみたが、善福寺池が紹介されていた。和服姿の井伏鱒二が善福寺を訪れて、昭和初期の記憶と景観にからめながら、現代(当時は1983年)をゆくというもの。バカでかい「カラス貝」を見せられ「これは、、オスとかメスはあるんですか」淡々と話す氏に人柄がうかがえる。善福寺川から善福寺池にいたるまで、当時(1983年)とほとんど変わっていないのにも驚かされる景観。川沿いにひしめき合る家々、これ以上手の入れようがないのかもしれない。


井伏鱒二の「荻窪風土記」、あの本はどこに行ってしまったか、、。と、おっと、もうこんな時間、、私の自由時間は終了でいる、昼さがり、家路へと急ぐのでいた。


2023年5月15日月曜日

小坂忠をききながら、古着屋「TO YOU」

 雨の休みの日には所沢方面へと、車で行きたくなる衝動に駆られる。縁もゆかりもない土地、所沢でいるが、前職の先輩や仲間が所沢方面であったことから、飲みや散歩は必然とそちら方面へ行くことが多くなった。清瀬、秋津、所沢、、全くの未開の土地でいたが、いまではその方角や土地柄なんてものも、おぼろげにわかるというもの。


勝手な解釈であるが、所沢のあの横長な風景はしとしと降り続ける景色がよく映えるのだ。まだ畑や雑木林なんかから沸き立つ水蒸気がムワリと、信号待ちの時に包み込む。清瀬あたりの米軍住居に住んでいた、細野晴臣の曲、小坂忠の歌声があれば尚のことよろしい。小坂忠の楽曲「つるべ糸」、秋口にあの曲をかけると都心部より2,3度低い外気温、より抒情的に感じる。自分がわからなくなる衝動に駆られて、わからないから所沢な自分はやはり小坂忠の「ありがとう」がそのエリアで聞きたくなる。「♪ありがとう 君の気まぐれにありがとう~、、だんだん馬鹿になってゆくのです、、」と。

所沢へ来たならば、気休めに所沢クリーンセンターを覗く。ここは中古衣料を大量に扱っており、市営リサイクル施設だが、中古衣料品は1枚100円で販売しているのだ。時に某リサイクル衣料品店なんか今後行けなくなるような、お宝が眠っているときもある。中古の値段なんて「言い値」である事と、中古となれば「ただの服」であるという、当たり前のことに気が付かされる。特に死にかけたアパレル、死んだアパレル、時代の波に押しつぶれそうな「型落ち」ウエアーが好きな自分にとっては「墓泥棒」のような心境なのである。、、まったく何もない時もあるが、それも「釣り」みたいでよろしい。主にネクタイ、ジャケットをあさるのだ。


そんな畑の中の所沢クリーンセンターを後にしたならば、ここ数年通っている所沢・松郷の古着屋「TO YOU」。名前からして魅惑な店舗だが、仮店舗のような仮設の古着屋でいて、このご時世には珍しい中古衣料店である。店主も非常に人当たりがよく、いつもアイロンをかけている。でいるからアイロン熱と、焼けた化繊・コットンの交わる、どことなく懐かしいアイロン臭が漂う。時代を意識しない商品が並べられ、時には自分らが過ごした90年代の懐かしのウエアーや、70年代の3文字アパレル「VOX」、アメカジ全般に、藍染めの印半纏や大礼服まであるという品ぞろえ。この「なんでも」感がたまらず、何時間でもそこに居たくなるのはなぜだろう。(下写真・以前買った藍染めの印半纏)

であるから、客層を見てもおばあさんから、高校生までと、気さくな店主とレジ横で語らう姿なんか懐かしく、親せきの家に上がり込んだみたいな心境を築く。この日はオーバーオールを探す、ヒッコリーが良かったのだがよいサイズがなく、がサイケな縦縞のパンツがあった、が29インチと劇細で入らず。結局、麻のパンツを1本購入(500円)これぞ、ザ・古着である。何回か足を運んでいるからか、店主も顔覚えてくれたようで「実は8月に店たたむんですよ、、8月までは買い入れしてますからよろしく~」と。そんなような会話をほかのお客と話をしていたので、まさかとは思っていたが古着屋「TO YOU」、直訳すると「あなたへ」、健さん最後の映画みたいで自分は悲しいぜ。

あと数か月、また雨の日にでも車を走らそう、所沢へ。

2023年5月14日日曜日

「厄」年なんて肩こりみたいなもの

 、しかしながら中年のおじさんになったもんだ、気が付けば40と幾ばく中年期。厄年なんてものは信じなかったが、なにかしら起こっているは確かでいる。体調変化の節目、今まで出来たことが出来なくなる、気分的な落ち込み、、、とKAZUAKI先輩を思い出す。10年前に確かにKAZUAKI先輩は薄幸でいた、、笑顔に西日がよく映える方だったが、そういう事だったのかと、同い年ぐらいになってわかる。てっきり当時は逃げ腰なのかと、そうでなかったんだと。長渕剛でないが「KAZUAKI GOMEN」。

ようやく厄を抜けるようなので、安堵、ようやく。と言いたいところだが、確かにいろいろあった。同胞CHABESは厄払いに行ったと話していたが、そういう事も気持ち的にしておけばよかった。まるで深手のけがをして、ちゃんと治療せずそのまま放置して経過を追ってきた感がある。ジワリとその後遺症じみたものが、ドロリと心に流れ込む

しかし厄年とはいえ、生い立ちや、育った境遇、過去の心的な受傷なんて「肩こりみたいなもの」と養老孟司氏は本で言っていたが、、なるほど。みな生い立ちは何かしらあるもので、朝はみなフエアにやってくるところから、そんなに考え込むことの程の事でもないのだ、厄とはいえ。


僕らの世代を世の中は「ポスト団塊ジュニア」というらしい。団塊世代の子供たちの、さらに次の子供たち、、読んで字のごとく「ポスト」であり、なんとも半端な、宙ぶらりんな響きだ。ビックリマンでいったら悪魔でも天使でもない「お守り」、車で行ったらマニュアルでもオートマでもない「コラムシフト」とみたいな。小学校時代はバブル全盛、中学でバブルがはじけ、高校で就職氷河期突入、フリーター、という縮図。まさにその通りで、あの過激な受験戦争(小学校時分)は団塊Jrの熾烈な競争の名残りだったんだなあ、、と。

この自分でさえ日能研なんかに通っていた、同級生が全国模試で1位になり皆の前で紹介、でかでかと塾の講師が固有名詞を書き、神格化していた。しばらく自分も通ってた(というか通わされてた?)そんな光景が狂って映ったもので、ビートルズの「ラバーソウル」ばかり聴いていた。ノイローゼを装い日能研をドロップアウトした自分、まさに行きあたりばったりな人生が始まった(いい意味で)。90年代後半の高校の進学室、普通科女子泣かせ、高卒女子の募集もほとんどなかったと聞く、男子ですら大手紳士服メーカー1社のみで、落胆した記憶がある。


結果、フリーターみたいなことを一時期していたが、世紀末もあり「これからどうなるんだろう」と切磋琢磨していた当時。あれから20数年、今がある。この長い旅路からして、考えるに行きついた先が現在、厄年も何もないものだ。団塊世代やシラケ世代はバブルを懐かしがる、自分から見れば「華麗なるギャッツビー」の世界観でいて、新宿の夜景や西ドイツの高級車、都庁の大理石、、大恐慌前のアメリカみたいな記憶がうっすら程度。あれは虚像だ、二度と来ぬ祭り、「祭りの後」が自分らの世界なのだ。


そう「厄年なんて、肩こりみたいなもの」そう呟きながら、腰をさすりため息をつく、ムクり起き上がる40,朝の目覚め。



2023年5月12日金曜日

散歩の日々vol.1「練馬駅」あたり

 先日の雷、夜勤明けの虚脱から、ふと我に返る瞬間でいた。ああ、こうしていたいと思いつつも、それでは夜に突入してしまう。むくりと起き上がりウエアーに着換えて、家を出たのでいた。、どうやら雨もザザザと降ったようで、駆け足の泥水がふくらはぎを汚す。

いい感じで汗ばんできたんで川沿い、赤レンガ敷の歩道をUターンした瞬間にコケる。ズテンと右足大転子部を強打し、右腕上腕も打撲。、、しばらくそこにうずくまっていたのだった。これは加齢によるものなのか、ただ単に滑っただけなのか、、なんとも宙ぶらりんなのが40代の特徴であろう。




、とそんな宵を超えて、今日も散歩へと繰り出す。もちろんクロスバイクでのポタリング、カッと照り付けるんで、昨晩の湿り気が戻ってゆくのがわかる。練馬駅辺りに行ってみよう、、ポタリング開始。まだ若干うすら寒い陽気を、日中汗ばむのに期待してゆくのが、今時期のいい感じな期待。交通量の多い道、矢原の交差点ではそこが起点かの如く、多くの車が四方八方。ここは信号がなくクロスバイクを担いで、クモ体に這い上がるように歩道橋を渡る。

ガスタンク、、怪獣映画も見なくなったがこの自分の、宇宙刑事ギャバン世代でさえ「爆発するとやばい」といった警戒感を植え付けられているが、、近寄れば浅田美代子の「赤い風船」みたいにかわいらしい容姿でいて、、巨大なマリモといった具合。




小学校の時分はやたらに「マリモ」がもてはやされ、みなこぞって飼っていた。しかしあれは「飼う?」というのだろうか、所詮「藻」であり、どこで仕入れた情報かうち家族は「マリモはドライアイスの気化した、あのモコモコを充てるとよい」なんて根拠のないことを。


生協の配達後の必要としなくなったドライアイスをモコモコあてていたが、水に浸ってるんであまり関係ないと思う。、と「カブトガニ」、あれもやたら理科室とかで飼っていて、巨大な容姿に身動き取れない、サイズの合っていない水槽に沈められていた。「マリモ」「カブトガニ」あのブームは何だったのだろうか。


話はそれたが、練馬駅あたり。練馬区でもこのエリアが元祖「練馬」、新宿区の新宿、みたいな感じ。都心ぽい雰囲気より外れて、商店街エリアをポタる。商店には1件古着屋があり、古着でもかなり廉価なので、ガサガサ漁るのが練馬駅に来た際の楽しみ。おばちゃんと揉みくちゃになりながら、いろいろな物を手にし物色。昨今は男性はつけなくなった「ネクタイ」蒐集にはまっており、幾らでもあるネクタイの中から1本、レジメンタルストライプの物を購入(200円)あの雑踏の中から、このいいなと思う1本、を見つけるのが休日の醍醐味、自己満足の極致?であるが、こうした物に囲まれた生活というものも、「そこにいる幸せ」自分には魅惑なのでいる。


同じく商店街にある植木屋でコーヒーの木を買おうか否か、迷うおうと考えるもまだ開店準備中でいて、忙しそう、今回は寄らずに富士見台方向へ。富士見台の商店街を自転車で行く手塚治虫の写真を見たことがあるが、次回はこの町を徘徊してみようと思う。初夏の日差し、昼過ぎには吹き出す強風が、黒い雲を呼ぶ5月のこの時期。

小遣い貰いの辛いとこ!「MADISON BAG」

先日、雨あが行きつけの古道具屋にて「マディソンバッグ」と対面する。僕らの世代にはなじみが薄いだろう「マディソンバッグ」、、ご存じであろうか?、というのも90年代にはすでにデイパックにとって代わっていたが、スポーツバッグ・通勤バッグにはこの手のショルダー型のスポーツバックが主流でいた。



そもそも「マディソンバック」とは何か?注目すべきは「IVY」世代、IVY世代も第一期世代~三、四期世代と永遠にあるようだが第三期(60年代後半あたり)にはすでに浸透しているようでいて、東京オリンピック辺りの世代は、デカいコーヒーか何かを入れる麻袋や紙袋を小脇に抱えるのが主流。1967~1968年あたりのメンズクラブ「街のアイビーリーガース」(町々でIVYなおしゃれな男性を写真を撮り批評した)の頃には、このマディソンバックがたびたび登場するようになる、、、。                        
映画でいうところ、この手のバックは1963年「大脱走」のヒルツが小脇に抱えたキャンパス布のバック、それを模してか1977年の映画「幸せの黄色いハンカチ」で高倉健こと勇さんが携帯しているボストンバック。邦画「オールウェイズ 3丁目の夕日」では和製IVYである「みゆき族」が登場するが、小脇には「VAN」の紙袋を携えている。マドラスチェックのジャケットに白いボタンダウン、黒の3.5センチ幅のニットタイ、コットンパンツにウイングチップ(日本ではなぜか「おかめ」と呼ぶ)が1964年・東京五輪の頃の和製IVYでいて、必ず小脇にそうした小道具を抱えるのだ。自分もそれを模して、当時原宿にあった「VAN SHOP原宿」にて紙袋だけ売ってもらうということをしていた。当時1枚100円でいたが(1996年当時)今思うと、趣旨が違うというかセコイというか、、それを小脇に抱えて通学したもの。が、所詮紙袋でいて、3日も経つと汗と使用感でボロボロになる始末、底に穴が開き失くしたものも数知れず、でブックバンドに切り替えたのだが。


~となるとIVY意識でのカバンはこの手のスポーツバックになるわけで、。スポーツバックなだけに中高生は必ず、特に60年代後半~80年代全半にかけて持ち歩いていたようだ。今回見つけたそれも1500円という廉価で出ていた割には、使用感少なく、ずっと押し入れにしまわれていたためか、ものすごくスエた匂いがする、じいちゃんの部屋の押し入れ臭だ!

使用しているとフチのシルバーのモールの芯が破れ、何ともみじめな様相になるのだが、やはり使われていなかったのか、その様なことは無い。だから使わない、このマディソンバックにとってはただオーナーが変わっただけなのだ。現行品もAmazonなんかでみるとあるが、ACE社製でなく当時物とは全く違うものでチャチいというか、なぜか素材が現行となると時代遅れな間抜けな感あり。自分は20歳ごろの時、何個か愛用したがこのマディソンバックは「眺める」様として、カーテンレールにでもひっかけ楽しもうかと思う。

、、こうした出費の積み重ねが火の車に、、小遣い貰いの辛いとこ。

2023年5月8日月曜日

父ちゃん、虫けらってどんな虫?調布にて「無能の人」再縁

 年の冬に調布市役所で開催された「つげ義春と調布」展、偶然散歩で訪れた調布市の、商店の張り紙で知ることとなり、胸躍らせて自転車を滑らせたのでいた。


自分はこうした催しものに際しては極めて情報に疎く、その場で知るか、終わった後に知ることが多い。調布は以前働いていたことがあり、20代の青臭い記憶の中、ガス廻りの、換気扇のプロペラの如く、ベッタリとメランコリーな記憶が張り付いている。どことなく「」が強い街でいる、開けた多摩川から流れ込む風か、遠く稲城の梨畑からの吹きおろしか。昼休憩には百店街を抜けて、旧甲州街道。京王線沿線は南蛮渡来の珈琲にご贔屓、古本屋を廻り30分ほど歩きまわるのが常でいた。そんな折、かの水木しげる氏が調布パルコ内を散歩されていたことがあり、握手をしていただいた記憶がある。水木しげる氏は西友のビニール袋を腕にかけ闊歩されており、のそりのそりと歩くその姿、第三期ゲゲゲの鬼太郎を見ていた自分にとって憧れの方でもいた。

「水木先生ですか?」「、、はい」「握手してもらえませんか、、」そういうと片手で持たれたビニール袋を瞬時に肘へ移動し、握手してくれたのだ。腰の低い老紳士でいて、いまでも調布の地に立つと思い出す、、、。ま、その繋がりではないけれど、水木しげる氏の著作にもたびたび登場する「つげ義春」が、その後マンガ家であることを知る運びとなり~、調布多摩川沿いが舞台となる「無能の人」、すっかり虜になってしまったのでいる。あの頃は、働いてはいたが何をしても上手くいかなかった、女性もできて一生懸命なんだが空回り、「こんなはずじゃない」と口癖のように呟いて自暴自棄になったり、酒に走ったりしていたが、、あれは「若さゆえ苦しみ 若さゆえ悩み、、」60年代のGSバンド「ザ・ジャガース/君に会いたい」でないが悶々の20代前半でいた。白髪交じりの中年社員の口角をあげた、狡い笑い。容量ばかりよくて次男坊気質の同僚、そして悶々の自分。まさに「無能の人」でいた。


この主人公、助川助三は無類の骨董好きであり、同じくして骨董好きな自分にとっても同調でき、骨董市なんかに顔を出すようになったのもこの頃からであった。「無能の人」で知った布田天神の骨董市や、アンチック多奈加、、後者は実在しており鉄バネの扇風機(ジャンク)を勧められたことがある。骨董は言い値、興味ある人からしてみればお宝だが、興味のない人から見れば全くのごみに等しいものだから「沼」である。

「つげ義春と調布」展では、おおよそ此処であろう舞台となった箇所が紹介されており、当時の時代背景は調布のいい意味での閑散さが、つげ義春の世界観とうまく溶け合っている。その風景は寂しくも、情欲めいた湿った男の息遣いが伝わるような「痴漢注意」の立て看板が映える景色そのもである、と自分は感じる。何度も読みたくなるのは、何ら変わらない日常と、何度でも足を運びたくなる、復唱であってほしいだろう現実が読み取れるからだ。なかでも好きなセリフ

「父ちゃん、、虫けらってどんな虫?」「はは、虫けらというのはね」「つまり世の中の何の役にも立たぬ、、」「ん?誰がそんな話をした」「母ちゃんがね、父ちゃんは虫けらだって」「・・・・」「うんそうだ、虫けらとは父ちゃんみたいなものだ」。

実にシュールな会話でいるが、、この会話が初めて読んだ20歳ごろより脳裏から抜けない。ブースを一回りして、帰る際につげ義春のキャラクターが書かれたTシャツ、なかなかの値段でいてほぼ完売でいた。「明日の朝、またサイズが入りますよ」と教えてくれたのだが、遠路道のり真冬の小径、また来る気力は無くに等しく、記念にクリアファイルを購入。ほぼ使わないクリアファイルを買うなんて、、源泉徴収票でもしまいましょうか、、。


そうした関連は、自分的に「ツキ」というか「縁」が一気に押し寄せることがあり、行きつけの古本屋がLP販売をも初めて(古本屋の多角営業化)、スコスコ見ていると竹中直人の「かわったかたちのいし1984年を見つける。竹中直人といえば「無能の人」を撮ってたし~、この題名からして「無能の人・石を売る」をオマージュしているに違いない。盤に針を落とし聞いたのだが、、、竹中直人氏の加山雄三を思わせる「いや~~、まいったな」というフレーズが耳についてはなれないのだ。20年ぶりに突如として沸き上がった「つげブーム」は今も続いている、、、。





2023年5月7日日曜日

もって30年「自分の時間は自分で造る」

朝の連ドラで牧野富太郎博士、この固有名詞に触れない日はないこの頃。むかしから生き物には興味があり、だけど暮らしに染まり、すっかり世帯臭くなってしまっただろう自分にも、幾ばくかうずく気持ちは残っていて「博士」、そのフレーズを聞いただけでもわずかばかし「そそられる」気持ちになる。

牧野博士もそうなんだが、自分は同じく明治大正昭和と生きた博物学者・南方熊楠に以前から興味があり、いつかはドップリ触れてみたい気持ちを押し殺してきた(というのは大げさな言い方だが)。団塊世代のおばが言いました、「自分の時間がない?、、それは言い訳よ、自分の時間は自分で造るものよ」、当時「チッ」と不快感あらわにした自分でいたが、、確かにそうしなければいつまでたってもお得意の「人のせい」である。そうした趣旨の発言、団塊世代は長けている。確かにそうだ、、、団塊世代の兄を持つ、自分のオヤジは「団塊の世代は嫌いだ」とよくこぼしていた。その世代の連帯歌でもある「戦争を知らない子供たち」、あの歌詞の中の「僕らの名前を~覚えてほしい~」のフレーズ。「僕ら、の(ら)が嫌なんだよ、、」。シラケ世代を物語る感覚そのものでいる。
自分の時間は自分で造る」、あの京大の教授は「寝る時間を減らしても走りたい(ジョギングしたい)」と話しているそうだし、この皆が寝静まる夜長を興味あることに注いでみようと考え始めたのはこの前の冬の夜長から。仕事帰りに尋ねた西荻モンガ堂、、確か南方熊楠関連の書籍が何冊か見かけた記憶が、、。実は前回行ったときにも探したんだが見つけられず。定期的にテーマに沿い、書棚を並び替えるようで、、あったあった「博物学者・南方熊楠の生涯」平野威馬雄著(昭和19年7月30日初版)である。

戦中の書物でかなり古いものだが、どういう人なのかひも解くには持って来いの書籍である。値段も廉価でいて即購入。実は南方熊楠を知ったのは、水木しげる著「猫楠」である。1992年に刊行された南方熊楠の生涯を描いた漫画の傑作、なんだがそれを読んだのは24.5の頃。どうしたわけか南紀の怪人でいて豪傑、数か国語を解し、大英博物館勤務、癇癪持ち、反吐吐きの名人にして、酒豪。粘菌研究に勤しむリテレート(文士)である氏に惹かれていたのだが、、気が付けば40も半ばになってしまった。少しでも興味ある事、、今ひも解かなければ、いつひも解く!?あと人生もって30年。

2000年代に江戸東京博物館で開催され「大水木しげる展」では、入口にモーニングにシルクハット姿の水木しげるが奇怪な声を震わせ、エンドレスに笑っていた(もちろん本人でなく写真パネルに音声装置)あのいで立ちは、南方熊楠がモデルと後年知るのだが、、どことなく人を魅力する人柄と、普通の人ではなしえないだろう豪快な生きざま、卓越した頭脳明晰さが魅了してやまないのだ。しかも肩書が嫌いというところも尚いい。さ、ブログもそこそこに南方熊楠の生涯、、寝る前の30分間ここにあり。

「ああ、ここでこうしているんだな」西荻モンガ堂

 しくなると自分は西荻モンガ堂へ行く、、、。そんなつげ義春的な心情で自転車にまたがる休日の午後。時間は限られている、また昼のジョグでそこそこに疲れている、この虚脱が何とも癖になる(疲労困憊が自分にはよいバロメータ)なのである、ただし肉体的限定。



そこへ行くまでは坂が何度かある、またダラダラと長いので、そうすると昼間に走ったことを後悔する(足が重いのだ)「ああ、重い」そう顔をゆがめつつもたどり着く西荻モンガ堂。これで日付を確認せず休みだったりすると死にたくなるのだが、何度かそういう思いをすると簡単に人は死にたいとは言わなくなるもの。その曲がりくねった西日の当たる、段ボール群に囲まれた店舗を見ればホッとため息が漏れるというもの。



西荻モンガ堂、、その看板には名前から連想するに「モモンガ」をイメージするところなのだが、、「すずめ」である。すずめは「MONGA BOOK」と書かれた書籍を抱え踊りだしそうなイメージ。



まず、その段ボールの中身を拝見する。まるで書籍とは関係ないものもあり、以前は「オキナワウラジロガシ」なる南西諸島の巨大なドングリが売りに出ていた。とCD関係は90年代を過ごした自分には唯々懐かしいものばかり。以前来た時に数枚買ったが、「かつて聞いていた曲」ってのは今聞くと、「懐かしい」で終わるパターンなのであまり聞かないようにしている。人一通り見終えると、昔の学習塾のような店舗、引き戸の扉はアルミニウムサッシであろう、古書の香りに包まれる。騒々しい青梅街道の喧騒をシャットダウンさせるのは、このアルミサッシ製の引き戸でなく、古書の威圧感。店主の方はいつもPCに向かっておられるが、自分の親ぐらいの世代であろう。そう思うのはランダムにチョイスする選曲が、まるっきり自分のオヤジおふくろ枠でいて、「赤い鳥」「はしだのりひこと~」「チューリップ」、と1970年代前半の歌謡フオークであることが多い。そんな空間で気になる書籍を探す~というのは、人工構造であるけれど野外の昆虫採集とリンクするところがあり、胸がときめくのだ。



一時、西荻モンガ堂で数冊のつげ義春の漫画と書籍を買った、おかげでだいぶ手元に置くことができた。20代の頃に手にして、手放したもの。それをまた手にするというのは、なんだかとても贅沢な気分になるもので余裕余暇そのものでいる。そうしたものは、離れてもまた戻ってくるものなのではなかろうか。店主のランダム選曲が井上陽水になったならば沼、ここはかつて自分が育った「実家」なのかもしれない、、そう思いつつ強くなる西日。別に目ぼしい品を探しているのでなく、つげ義春風にいえば「ああ、ここでこうしているんだな」的な抒情に浸るのが常でいることが多い。気になるところ「べ平連~巨大な反戦の渦を!」これは1969年9月に刊行された、自分からみたら叔父世代(団塊世代)の書籍にて、フォーク好きならば必ず通る反戦歌。それをひも解くにべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)を知れば、その真髄が見えるかもわからない!?例えば岡林信康や高石友也、中川五郎。けど、、そこまで熱くなれないんですね、自分。親父はシラケ世代と言われていて人達だし、自分の内面ばかり模索していたような感じで、自分もその節がある。加川良の「教訓1」の方が馴染みやすい。けど、60年代好きとしては押さえておきたく、購入。

20分ほど店にいたか、、休日の終盤は西荻モンガ堂にて西日を浴びるのが最高の休日である。



オリカエシイズム

となく熱くなれない初夏。これは加齢に伴う新たな境地なのか、考えてみれば折り返し地点も過ぎたか。あの倍数でもってどれだけ惰性で歩いてきたか、いまだ振り返る所作が治らない。かつてボブディランのドキュメンタリー映画「Don.t Look Back」を親父はビデオテープにやいて、VHSデッキ周辺の、埃をかぶるその空間にそれを見つけた時、いつかは見ようと殴り書きのそれに胸躍らせた。「振り返るな」、中学生の脳裏に響くただただカッコいいフレーズ、自分の主張の如く無駄にそれを吠えていたが、、30過ぎ辺りから全く触れなくなった。真反対の半生がいま此処にある。ま、致し方ない、人生は夢だらけ、、そういうにはすでに遅すぎるかな2023年春。 



世代を感じる、という局面にここ5,6年おかれている。いろんな局面、例えば12歳年が違えば「ついに来た」そう同じ干支の、俗にいう「一回り違う」とか、昭和二世、「○○世代」の子供「○○世代Jr」とか。まるっきり意識したことがなかったが、日々刻々と移ろいでいて、月日ばかり流れて、気持ちばかり取り残される心情は、まさに「諸行無常」そのものである。この公開ブログは、そんな整理券を手渡された、なんとも半端でまだ若いんだか、中年なんだかわからない自分みたいな人、に読んでいただけたらと思う。共感は求めない、そうもう答えは出ている、自分は初老の男、なのである。(ちなみに、Jhonesとは幼少期のヒーロー・インディアナ・ジョーンズからである) 

                      2023年5月 諸行・M・Jhones






                 


Jジャーエールのエールは、応援ではない。

 と、またも見つかった 虫歯治療 をしに、かかりつけの歯科がある目白辺りまで、クロスバイクで向かうのでいた、、。 先日の受診に帰り際に、、レントゲン撮ったらその影が反対側にあるとの事で、、年内に、いまある虫歯を治そうという、という、そういうアプローチ。 いかんせ、ビール代用として...