2025年1月31日金曜日

真冬の甲州路~往路編~

 年またぎの年明けから、体調不良で1月は散々なスタートでいたが、、ゲン担ぎでもないけれど、その反動で真冬の甲州路へと繰り出す運びになる。

甲州は関東勢、特にバブル期を謳歌した(といっても自分は幼少期でその繁栄しか知らない)であるから、山梨県=身近な高原地帯、軽井沢よりかは格は落ちるけれども中流家庭の避暑地、旧北巨摩郡高根町(清里)はまさに80s90sは聖地といっても過言ではない。退廃的な流れのそれでいたが、現在では完全に死んでしまった清里繁栄と衰退を、この40半ばにして辿りたくなるのは、帰巣本能か、さては犯罪者が事件現場へ再度確認しに行く、あの心理状態に近いそれか(何故おまえが子供のころ楽しませてくれた清里を見捨てた、という心情あり)

この日のために荒井由実の楽曲を、わざわざCD-Rに焼いて中央高速道路へ。ユーミンフアンでいた母親がそうしていたように、まず右側に競馬場が見えて、その先のサントリーのビール工場が見えたあたりを見計らって、楽曲「中央フリーウェイ」をかけたんだが、昔の傷がうずいただけでいた。ならば楽曲「雨のステーション」にするべきだったなと、一人呟いたのでいたが、、「愛してるって、言っても聞こえない、風が強くて」とあったがエンジン音がうるさくて、尚の事聞こえない中央道クルージングの下り。


久々に「釈迦堂PA」へ、、。甲州信州へ行くときはかならず、このパーキングで休息をとっていたが、冬に来ることはあまりない。そこらじゅうで野焼きをしているためか、懐かしいたき火の香りと甲府盆地の景色。このPA上にある「釈迦堂博物館」へ初めて訪れてみることに。平日とあり誰もいない、、このエリア(信州もそうだが)笛吹川とか川沿いは、こうした縄文期の遺跡が多いようで~このエリアも同様に出土した、簡素な素焼きの器だの、人面を象った発掘品を展示している。こうした品々は嫌いではないから、何千年前のそうした時期と今を鑑みるに、一方的な思い込みや造った意味なんかを、乏しい知識で、想像でたどるのは面白いものでいる。



すっかり冷え込んだ甲府盆地、3度ぐらいかえらく冷え込んだ午前中でいた。そのまま長坂ICへと向かう。実はここにはS区の保養施設があり、1996年(当時高校2年生)に中央本線各駅で訪れた以来でいる。今回は車だが、あれから29年たったS区の保養施設に泊まろうと画策。テレビの音楽番組でもやたら90sに流行った流行歌が流れているのも、こうした「振り返り」の時期に達した自分たち世代のそれかもわからない「衝動」、、そしてここにたどり着いたのもそうした心情が招き寄せた「衝動」かもわからない、、、。

そんなんで、ほうとうで有名なほうとう「小作」へと高根町エリアへと向かう。清里駅前は実に寂しい風景だが、、2010年代と何ら変わりはない。かつて賑わっていたお土産屋群は天女山からの吹きおろしが、より一層劣化し解体され、寂しさを募らせている。その町並みを抜けて、国道下ると右に見えてくるのがほうとう「小作」でいる。



2000年代に来た以来でいたが、自分が思っている「小作」は、その記憶が断片的過ぎて、最近よくあることだが自分勝手にその風景が、自動的に脳処理で修正されていたりする(ようは実際とは違う感覚)、まあ、いいわ、せっかく武蔵野から150Km近く移動してきたのだからと、奮発して「鴨肉ほうとう」(1900円)を注文。南瓜ほうとうがいわゆる「定番」であるが、南瓜里芋はスタンダードに入っているものなので、、あえてそれを頼む必要もない。

鉄なべに入り運ばれてきたそれを見て、ため息が漏れるという物。熱い熱い~いいながら15分はかけてぺろりと平らげる、、、。この時点で甲州色にスッと入れた感じがした。


そんなんでJR中央本線・長坂駅へ。積雪を意識した?コテージ風な懐かしい駅でいるが、無人駅でいた。なんて名の名前か山かよくわからないけど、「おろし」がヒュウ~と入るさみしい構内。


じっとしてはいられないが冬らしいかな甲州、、ふと駅の入り口脇に目をやれば「白ポスト」。ようは青少年に良くない資料(エロ資料回収ボックス)を見つける。
みうらじゅん、ならこれを見てなんてコメントするであろうか(笑)、、んなんでJR長坂駅を跡にしてS区保養施設へと向かうのでいた。

2025年1月24日金曜日

久しぶりのOJISANPO(荻窪・西荻窪編)Vol.2

 そんなこんな街中華のおばさんに教えてもらった,荻窪行きのバスにのり、第二の目的地である「荻外荘」公園と目指す、、、。「ああ、飯も食ったし、、眠くねえ?」と繰り返すW月先輩でいたが「このまま解散しない?」そんな言葉まで出てきそうなフレイル感満載で、バスに揺られると、一番後ろの席に揺られているから、、井上陽水の楽曲「カナディアン・アコーディオン」が脳裏に流れる。♪「僕は揺れない後ろの席で、、、」だ。


と環八を下る、W月先輩は高校時代に、借り上げの賃貸物件で一人暮らししていたと聞くから驚く。すべてが「桁はずれ」な先輩でいるが、玄関から寝室までにたどりながら、一枚一枚服を脱ぎ捨てて、、朝起きたならばそれを逆に辿れば、帰ってきた装いとまた同じくして戻ってゆく、、そんな話を以前していたが、、要は「無精者」なのである。

右手にこんもりと森林の高台が環八から観れたんで、、あれは荻外荘辺りじゃないんかな、とピンとくる。荻窪2丁目あたりで下車。そこから歩いて荻外荘通り(この名称は昔からあるのであろうか?)昨年の暮れはまだ工事をしていたが、、やはり2024年の12月にオープンしたばかりの様。




、、すごい人である、、。週末であるが繁盛している。拝観料300円なり。2016年辺りには、前の芝生は公園一部として開放されてはいたが、、その「荻外荘」の3の文字を組むには程遠く、その先の茂った古い建物を何となく拝むだけでいた、、、。



戦後80年もあり、史跡として公開に至った流れか。


まず驚いたのは天井の高さ、まるで星野リゾートのような余裕のある和洋折衷の空間である。そして午前中に寄った徳富蘆花の私邸とはまるで桁が外れていて、装飾や窓枠が全然に違う。元首相宅、公家の出身のなせる業である。造りを見ていると、ところどころ修復・リノベーションされており、公用トイレはTOTOのウォシュレットまでついた、きれいなトイレでいる。拝観料とトイレ事情はいつも兼ね合いが取れているというものだ。


個人的に念願の荻外荘(当初、外から眺めるだけなのかと)思っていたのもあり、胸躍るが人の多さにゆっくり見れず、W月先輩もトイレに入ったきりなかなか出てこないし、、その横には自決した書斎もありで~歴史的?半復元空間は、観光の地となってしまったことを知る。

が、、高台下から見る荻外荘は、当時の権力者のその面持ちあり(W月先輩は歴史的背景から無口となる)



その後、大田黒公園を廻り井伏鱒二、井伏鱒二といえば荻窪の教会通り、そのエリアをさまようおっさん二人。途中カフェにて小休止するも、酒盛りにはまだ早い、、、。
そんなんでタウンセブン内を徘徊するも、、その地下名店街の鮮魚たちをみても、時期的にそれらを買って公園で食らうというのも時季外れであり~時間をつぶしつつ、、西荻まで散歩を提案。途中、学生時代にW月先輩がバイトしていたという喫茶店を見つつ、青梅にぬけて西荻窪へ。1月の夕暮れまじかの寂しさの飲み込まれそうになりながら、、行きつけの西荻モンガ堂へご案内。

20分ほど書籍を見入ったか、、自分はまたもつげ義春と書籍を購入、、。W月先輩は昨今、宮沢賢治の書籍を読み漁っているようで、、「風の又三郎」(漫画版)を何度か手に取り、それを戻したりしていた、、。

夕暮れの後に荻窪へ至り、和服でカウンターお店「B」へ辿る。値段が無く驚くが、、聞くのは野暮的な流れもあり、大体の値段を聞けば、極めてアバウトの範囲の値段をしめされる。雰囲気はなかなかのよろしかったのだが、、おみやを持ち込み、振る舞うというおじ様の顧客も体もあり、一間はどことなく堅苦しいかな。やはりブルーカラーな我々は、町の居酒屋、お互い購入した寺山修司グッズを眺めたりしてその時間を、二件目で楽しんだのでいた。

今回のW月先輩との会話でよく出てきたのは「さよならだけが人生だ」でいたが、その通り日暮れた練馬の駅で、別れた先輩と後輩。次回は立川あたりでナカガミで、、、。お疲れさまでした。


2025年1月22日水曜日

久しぶりのOJISANPO(杉並区編)Vol.1

 正月のフレイルからも何とか脱し、日常に戻る、、、。

が風邪はもらいたくないもので、バスとか電車に乗るのが若干怖く~敬遠、自転車ばかりで移動している。、、と先日は旧来のわが先輩であるW月先輩と久々に遊ぶ運びとなる。

世田谷文学館で寺山修司展を開催していることを、昨年知り「テラシュウ」とそう呼ぶ、W月先輩と尋ねたく、吉祥寺にて落ち合う運びに。

えらく鼻声でいたW月先輩でいたが、前日遅くまで酒を飲んでいたようで、、顔も浮腫んでいたがそれは午前中まででいたのだ。

富士見ヶ丘駅で下車、、その後も、W月先輩ややかったるそうな印象を受けたが、かつての職場に来るのも、退職して以来のようで「全然変わってねえ~~な、、懐かしいわ」「あの蕎麦屋まだあるのかよ」とW月節全快となる。

東大は安田講堂と同じ設計者だという、浴風会本館を前を行き~芦花公園駅方面へと歩みを進める。甲州を抜行けて、旧甲州を渡り~芦花公園前のロータリーには早速寺山修司展のポスターが貼られていたのだ、、、。

世田谷文学館に来たのは2006.7年辺りに企画された「植草甚一」展以来であるから、もう20年ぶり、断片的記憶はその景色も「思い込み」で形成されるから、実際の思っている外観と本当の外観に錯誤がある。今回もそんな印象でいたのだ、、、。


なんと入場料は200円だった。同様に知らぬアニメの企画展は1000円近い、寺山修司展もそれくらいとってもいいとは思うが、、、。と、寺山修司の世界がそこに繰り広げられる、足元には新宿東口から明治通り・花園神社あたりの手書き風マップ。自分が19歳の時にレンタルビデオ店「G」、ドキュメンタリーコーナーの片隅で見つけた「田園に死す」、そのポスターと書籍、、。おどろおどろしい「母地獄」の写真、あれは「田園に死す」の冒頭にも出てくるが、、怖いけど引きつけられるのはなぜだろう、、。




唯一写真撮影がOKなコーナー、まるでお経の様に書き連ねられた、寺山修司の短歌たち。W月先輩とそのコーナーを無言で見渡すが、そのゴロの良さと、到底思いつかない「仏壇」とか「入れ歯」、「婆」とか寺山修司ワールドに浸ったのでいた、、、。

と、やはり圧巻は横尾忠則デザインのサイケなポスターたちだろう。60年代後半のヤングな風俗を後押しするような「JUN」「VAN」の後援広告が入る。これが見たかったのだ!!

まじまじと近眼が進んだ40半ばの眼球でもって見入る。まるで濃厚な豚骨スープをすすったような心情で寺山修司展をあとにしたのでいた、、、。こんな気持ちは数年ぶり。

復刻版の書籍はなかなかに高く、図鑑並みの値段。致し方なく横尾忠則デザインの天井桟敷のポストカード数種類、やはり天井桟敷がらみのクリアファイル2つ購入、、1500円ぐらい。そこに寺山修司の「お面」もあったがやや際物でいて購入はせず。

すっかり満腹になり、ついでだし~まだ昼前だし、で芦花公園の地名にも由来する、都立蘆花公園へ足を伸ばす。徳富蘆花の指定と展示施設があるのだ、、。

西東京エリアに越してからここへ来ることもまずなく、やはり2005年辺り以来だから、20年ぶり。すっかりW月さんの顔の浮腫みも取れて、私邸を探索。

隣接する、徳富蘆花の資料館で「誰かに似ているよな、、、」そう呟いたのW月さんでいたが、若いころの徳富蘆花の写真見て驚愕、それは自身の若いころの面影にそっくりでいて、本人も自負するほどの似具合でいて笑う。「自分でも似てると思うわ~~」(*下の写真二枚・徳富蘆花の若いころ、1890年代)



そんな小さな発見に喜び、腹も減ったんで町中華と決め込み、芦花公園へと戻る。

行きに目をつけていた町中華へと入る。考えてみれば2010年代の早稲田散歩、「メルシー」以来の町中華来店かもわからない。この店は値段が安くびっくり!昼定食は750円、ラーメン500円!大手ファミリ―向け中華料理店Bより安い!自分は寒いし、「天津飯」を注文、それに久々の瓶ビールを飲む。口喝に乾燥とで、喉にしみいる泡の音、、。二人で瓶ビール2本明けてすっかり満腹かな、二人で2500円とは安すぎるぜ。

そんなんで、二人は方並べ荻窪は荻外荘方面へ、、、、。

2025年1月12日日曜日

南方熊楠が知りたい!

 病み上がり雨あがるか、、

内服薬もそこそこながら日常を取り戻す。病からの反動というか、一種の一時的な「悟り」に近い心の余裕は、そうでなかった期間と乗り越えたそれが成しえたものなのか、、心は平常というのが、仏教でいる苦行の行うそれでいるものか、、、。

休日、余裕ある休日は年明けで初めてであろうか、そう組まれた事に感謝である。えらく雲が低くて荒井由実の楽曲「ベルベッド・イースター」でも流れてきそうな寒空、、目が覚めたのは10時近かったのだ。特に予定もなく、古本屋でも巡ろうかと考えていた、、。

暮れに購入した野坂昭如「アメリカ型録」、は昭和一桁、戦中派世代を知るいい戦中派特有の「単語」「名詞」を知りえる書籍でいた。寝る前の30分ほどの読書、これに影響されてか見る、その浅い夢というのもなかなかに面白いところ、、、。

駅前の古本屋「S」へ行く。元旦から開店していて、おおいに胸躍るが、こうした灯油ストーブの燃焼から、二酸化炭素からの窒息しそうな切迫と、それを蒸す古書の臭いの混沌が大好きである。昨今こうした店舗は少ない、90sはまだあった、前にも話題にあげた目黒通り沿いのGなるレコード店はまさにその世界観でいた、、。炊きすぎな灯油ストーブと、その外気との差から冬の窓ガラスは結露、カビの温床となる事なんのその、60sのレコードはそこに蒸され、ゆえの古物臭を放つ。それに似たカホリでいて、、感受性ビンビンでいた10代の小生、あの混沌臭は、、あの匂いは忘れられない、冬の古物の匂いなのだ、、、。

あるものは判っていながら、その棚をめぐる、、、。!!南方熊楠の書籍博覧強記の超人伝 ・驚異のミナカタワールド」の小冊子の写真集を見つける!紀州の奇人怪人「南方熊楠」の書籍でいる。

南方熊楠を知ったのは水木しげる著「猫楠」でいたが、、、なんとなく以前からぼんやりと奇人の天才、昭和天皇に海洋学を薦めた人、というのは知っていたが、、関西は和歌山・紀州田辺の人だし~関東の自分にとっては、実際に足を運び体感するにはやや遠い。で、あるから古本屋で見つけては購入してはいるけれども、、南方熊楠関連の書籍は人気があるからか、なかなか品薄、なおかつ値が張ることが多い。今回見つけた書籍は写真入りで、無学な自分にも到底、その読むスピードを速めさせてくれる。いろいろな視点から、南方熊楠を学ぶのによい資料であろう、、。監修の一人によく水木しげる氏と、よく名を連ねていた荒俣宏氏もいるし、、これは楽しめそう800円。


(上・写真は以前西荻モンガ堂で購入した、南方熊楠の生涯/昭和19年)

その後、冬の武蔵野道をゆき、野坂昭如他、さらに南方熊楠の書籍を探しに~モンガ堂行脚も考えたが、、待てよ、、こずかい前だしこの1冊で今日は満足としよう。それを私鉄沿線の踏切が思いとどまらせてくれたのでいた、、、。

家に戻り南方熊楠の書籍をパラパラしてりして昼寝、、、。いつも誰かに連絡をとり、その返答を待つという浅い夢ばかり見る、、。真冬の夕暮れチャイムは16時30分。ふと我に返り、休日は終わる。一日がそんなのだから、人生があっという間、というのもおかしくない。そんな真冬の休日。

2025年1月6日月曜日

憂いの季節にて「イトーヨーカドー」ガチャ

 病み上がり感ばっちりの休日、、、。

年始からケッタルくて仕方がなかったが、ようやく普段のペースを取り戻しつつある。久しぶりに雨が降るという、、考えてみればもう1月以上も雨が降っていない。だからだ、ウイルス飛び交い伝染伝染してゆくじゃないか、、。ま、もう罹患したのだから幾分体内に抗体もできたろうし、、本番へ向けての冬を楽しみたいところ。

そんなんで、またもハトマーク(イトーヨーカドーグッズ)が気になり始めて、よせばいいのにイトーヨーカドー・東久留米店へと車を走らせる。なにやらオリジナルグッズのガチャがあるようで~(いつもそういうのに気が付くのが遅い)リサーチ不足、、、。あと広大な売り場の中に、ガチャガチャコーナーが在ったが、、もしや「ハトマーク」のガチャも混じっているのかもしれない、、。そんな疑念と期待を抱き、西東京方面へと下ったのだ。

あのトミカビルみたいな立体駐車場を円を描きながら、4階の駐車場へ。さっそくガチャコーナーを虱潰しに廻ると、、!!あった!イトーヨーカドーの「オリジナル」ガチャだ!!


が、一回500円か、高いな!!ま、いい、欲しいアクリルキーホルダーを得るため両替して、いざ機械を回すと、、!「ハトマーク」の巾着袋、、これ500円も絶対しない。いいとこ50円である、、吸われたな。と、もう1回、!!これは「ハトマーク」のハンドタオル、、どうしてこう布製品ばかりなんであろうか、、。


ここまで来たら、ともう一回、、!またも「ハトマーク」巾着、、、。この時点で1500円。ガチャの怖いところである、欲しくないものが出た時と、被った時の落胆は、一回500円もあり怒りに近い後悔がある。

~と、ラストだもう一回機械を回す、、!!とようやく「イトーヨーカドー」と印字されたアクリルキーホルダー!!うれしいが小さいな、これ。やはりこれで500円は高い!!それならば向かいのマックでセット二つ頼んでバク食いすればよかった、、、。いいやら悪いやらで、何とか「イトーヨーカドー」アクリルキーホルダーを入手したのだが、、こずかい故にそのダメージも大きい。

ま、これで年末からのイトーヨーカド―熱が、はっとさめたような気がする。それらをポケットに詰め込んで帰路に就くが、、雨が本降りで振り出したのでいた。車の中で思いっきりくしゃみをしたならば、鼻かみすぎて鼻の下までも荒れていて、憂いの季節。

2025年1月4日土曜日

「ちくわぶ」工場へ

ようやく快方へと向かうも、、とんだ年またぎでいた。

まだ、人が休んでいるときに働いている方がよかったのだが、、何年振りかの正月休みに罹患するとは、、ああ俺だなあ、要領をない人生を振り返ってみたり、、、

美味いはずであろう食材が、まったく残念な結果となる。あんなに霜降り肉を食らったことが無いのに、罹患ゆえに味も微妙に脳の誤作動といった具合で、ラードの塊を食べているかのようで残念でならない。こればかしは致し方ない、、現場から事務方に移り~遅い五月病とでもとらえようか、、。

病床?にて、年末に西荻は「モンガ堂」で購入した「アメリカ型録・野坂昭如/著」と、「高倉健、最後の季節・小田貴月/著」を交互に読んでいた。「アメリカ型録」は戦中闇市派の野坂昭如の体験談とアメリカから入り込んだ文化と、その混沌をカラー写真入りで紹介するそれでいて、もう一冊は故高倉健の晩年1年をおった、いわばモニタリング・アセスメント、、回想録でいる。なんとなく故高倉健も元来、体の強かった人だったんだなあ、と思う。そしてベールに包まれていた印象でいるけど、小田貴月氏とのやりとりから、ホントそのあたりを行く同年代の高齢男性とそう変らない価値観や、時の焦燥感と、そしてそうなり~なるんだろう自分を重ねたのでいた。まだ読みかけだが、、何年かぶりに床に臥せたのでいたので心に響いたのだ。

、と本日は調子も幾分よくて、「ちくわぶ」を買いに散歩がてら、歩いて直売所まで赴く。少し距離があるけど、数日横になっていただけでも筋力の衰えを感じるもので、、これからいくらでもこうした事態は起こりうる、いや確実に頻発するであろうから、、少しでも通常にいち早く戻す必要があるのだ。昭和初期の平均年齢は47.48歳と聞く。食事情や医療が進んだとしても、そうしたことを鑑みないで「自然な状態での維持」が今の自分ぐらいの、そういうことであろう。

ちくわぶ工場は、いつものように稼働していた。慌ただしくトラックが出入りする、、そんななか無人の自販機にて「ちくわぶ」を無事に購入、カバンを忘れ、お気に入りの昨晩ボタンを付け直した、コールテンのコートのパッチ&フラップのポケットにそれを押し込んだのだが、、小麦粉練り製品とあり~ズシリと重たい。、、カバンをもって来るんだった、、、。どうもそうした事に昔から頭が回らないのでいる。

昨日より日があるけれど、なかなかに冷え込んだ関東の正月明けの4日目。地方ナンバーも目につくが、、「横になりたい」、、ああ病み上がりかな、とんだ正月でいたが、今年はいいことがありそうな気もしないでもない。

2025年1月1日水曜日

「ハートに火をつけて」VANのステッカー

あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いいたします、、、。

と、体調すぐれず。どうも流行り病に感染した様だけど、、ワクチン接種から抑制されてか風症状がジンワリと続くようである、、、。めったに風邪をひかない自分にとって、体調不良は滅入る、それは加齢に伴うのもあるんだろうが、、なんとも年明けからやるせない。

、まそんなこんなで年明けを迎えられたのだが、、年末に大量のVANのステッカーを手に入れる。こんなにも当時物のステッカーが届いて、予想以上の枚数に正直驚いている。

VANはいま今ステッカーセットとか造っていないと、青山KentShopの店員さんが話をしていた。見つけても決して安くない、数枚で二千円以上はする。もちろんそうした品は昨今造られたもので、ステッカーのノリもしっかりしているが、、古いもの(いかんせ1978年以前)の物だから、何かに貼りつけようとしてもノリが死んでいる。で、あるから古いステッカーは比較的に手に入りやすい。自分はもうすでにペタペタと車に貼っているので、ビックリマンシールを集めるような心情でVANステッカーを収集しているのである。

古いステッカーと言え、こんなにあれば今まで一枚でもあれば喜んでいたところ、、度を越した量に感情失禁となる。中でも「ミッキー・カーチス&サムライズ」のステッカー!

これは60年代後半のあの伝説?のグループ、ミッキーカーチス率いる海外に演奏巡りをしていた、国際派のGSグループ、そして楽曲(太陽のパタヤ)は、自分の真夏ジョギングソングである。後援していたのが「VAN」だったのか、音楽雑誌でこのステッカーを観たことがあり、実際に本物を見るには始めてでいる。GSフアンとしてはうれしいところ。

他にもケープコットスピリット(やはり60年代後半のVANが提唱した、アメリカ東海岸のレジャー・ウエアー)のステッカーや、「VAN MUSIC BREAK」(これはVANが協賛していた、ジャズ番組らしい)のステッカー、などなど。

と、VANの向い獅子ステッカー。自分が懐かしいというのはおかしいが、どれもこれも胸躍るステッカーたちでいる。

これらは貼らずに、ファイリングし、あこがれの60年代へひとっ飛びできる資料として収集の第一歩としよう。、、ああ、それよか体がだるい、、そんな元旦。

Jジャーエールのエールは、応援ではない。

 と、またも見つかった 虫歯治療 をしに、かかりつけの歯科がある目白辺りまで、クロスバイクで向かうのでいた、、。 先日の受診に帰り際に、、レントゲン撮ったらその影が反対側にあるとの事で、、年内に、いまある虫歯を治そうという、という、そういうアプローチ。 いかんせ、ビール代用として...