~所用を済ませ、空いた時間、輪島市は剱地(つるぎぢ)地区を目指す。
やや中心部から南下した剱地地区、、前述したように小学生の頃の交流会、この地区との同学年の子たちと交流した記憶。ソ連崩壊した年であったから、1991年の夏(何月かは忘れた)が、いかんせ30年以上前の事で記憶が定かでない、現地へ来るまでは総持寺と剱地地区の祭りを一緒だと思っていたが、そうでなく各地域であの能登伝統の「キリコ」神輿を担ぐ神事があることを知る。
胸躍らせて剱地地区へ、、、。
?!着くが全くと言っていいほど「あ!」と記憶と合致しない。集落を流れる河川は、うっすら記憶がある。板を張りつけた外壁は印象的。(これは潮風が当たると、嵐のごとくうるさくて寝れず、板張りだと静かと教えてくれた)
河川敷を行くも人が誰もいない。公民館当たりを抜けて、一部損壊した住居の解体作業をしているの人いたが~ここ剱地地区は、同じ輪島市の地区ほど被害は軽いとの事、地盤の差と地元の人は言う。
この公民館を抜けると急な登坂がある、この上に旧仁岸小学校・旧剱地中学校がある。
この急こう配の坂はうっすら記憶にある、、祭りで最後の集合地点が小学校であり、歩き回り最後の難所的な感の記憶。この地区にも子供は少ないようで、すでに2000年代に統合されて、今は使われていない。、、ま自分の地元の中学校も、都内だけどすでにNPOの活動拠点に使用されているし、、。これも少子化による時代の流れですなあ。しばし高台より剱地地区を見渡す。
しかし人が少ない、昼間だというのに誰ともすれ違わないもの。
高台から下り、30数年ぶりとなる「剱地八幡宮」へ参拝。当時の「キリコ神輿」もこの八幡様への奉納祭りであったのであろう。参拝後、剱地郵便局へ、ご当地の郵便局の絵葉書(ポスト型)を購入し、かつて滞在した「旧国民宿舎 能登つるぎぢ荘」の経路を伺う。「もう、あそこは14.5年前に廃業して、やってないですよ」。集落入り口の、急こう配の高台にその「つるぎぢ荘」はあるとの事。せっかくだから、(当時撮った集合写真も持参してきた)旧「国民宿舎つるぎぢ荘」へと向かう。
かなりの勾配を上り行くと、、草ぼうぼうのなか、観たことのある屋号・看板が立つ。「あ!ここだ!!」と誰もいない残暑セミの泣く中、中年の声が響き渡る。それにしても、一時は2007年の能登地震の際にも避難所として活用されたようだが、、現在では荒れ放題でいる。この立て看板も文字が今にも落ちてしまいそうだが、、この看板に寄りかかり昔の同級と写真をとったのは定かに記憶あり。
この旧「国民宿舎つるぎぢ荘」は歴史もそこそこ古く1971年オープンとある、、。たしかに初めて泊まった時でも古い旅館の香りと、、だれも買わない「キリコ神輿」のお土産(これを当時なぜか数個買った記憶がある)、散財し皆が小松空港で土産を買う中を、自分は何も買えなかった記憶(笑)
ここで出された「サザエの壺焼き」は小生忘れられない味である、能登の磯部を見下ろしながらくう壺焼きは実に印象深い思い出。地元の人の話では~その景色も、今では崩れかけており観ることができないとの事。
しばし自分の記憶と現状とを織り交ぜて眺めていたが、、諸行無常という言葉が脳裏を流れゆく。当時を共有した、剱地の同学年の人と話をしたかったことだが、、話によると40代になる世代の人はほとんど地元を離れ~、金沢や名古屋(石川の人は名古屋へ出る人が多いようだ)そこで家を買い生活をしていると。
何はともあれ、こうして30数年ここに立てるのも、何かの縁だな。恩返し含めて、明日に備えよう、、。サザエのつぼ焼きは食えないけど、フクラギ(ぶりの幼魚)を夕飯に食らい床に就いたのでいた、、、。






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