、、そして活動は続き、その日は夜間は勤務のため昼間は時間あり、夕方からの活動開始となる。遅く目覚めたのだが、人というものは「寝不足」になっても「寝だめ」はできず、何度も寝返りを繰り返しているのに嫌気がさし、むくりと起き上がり、車を走らせたのでいた。
特徴的な能登の海岸部に隣接する、板壁の景色が恋しくなり見に行くことに。
小学生の時分にも、都会育ちのの自分にとってはそうした景色が初めてで魅惑、海風と塩害からの対策ととうじはつゆ知らず、懐かしいかな、すすけた外壁は印象深い。
剱地もそうだが、手前の黒島天領地区へ。かつてここは北前船の中継地で、江戸時代は海の男の町、交易で栄えたエリアと聞く。が、歴史的価値高いかつての町並みも、この震災で壊滅的なダメージを受けている。街中にあった資料館も鍵がかかっており、現在は展示品を観ることができなかった。少しでもその面影を目に焼き付けたく、周辺を探索。
被害は甚大であるけれど、クロっぽい焼けた戸板や外壁が当時の面影を思わせる。
山形・鶴岡の豆腐は丸い豆腐でいたが、ここ輪島市の豆腐も丸い豆腐、関東は四角だが~そうした食文化も上方(関西地方)からの影響大。そんなこと思いつつ、地区の若宮八幡神社へ。
地震の影響さることながら、鳥居など土台から落ちてしまっている、古い境内は杉の木で支えられ倒壊しないように支えられているが、、歴史のある境内なのでなんとか持ち直してほしいものだが、、。よくある大東亜戦争時の忠魂碑も根元から折れてしまっている、、。
物悲しいばかりで、こうした八幡様や仏閣巡りが好きな自分にとっては、ものすごく胸が苦しい。手を合わせて八幡様を後にしたのでいた、、。
海岸線へと降りてみると、先日の土砂災害にて流されてきた倒木やごみが山積している。そこに辿るまでには、隆起した砂浜を行かなくてはならず波打ち際に辿るに5分は要した。河川から流され海にたどり着いたのであろうが、海辺に倒木というのが見慣れない景色であり、これもまた胸が痛む。遠くでは、エンジン音がし隆起した砂浜を掘り起こす作業、前回来た時と同様に永遠に行われている、、、。人の力ではどうしようもない結果に、こうして佇むしかない虚しさ。
その後、剱地地区の「泣き砂の浜」へ足を運ぶ。字のごとく、砂を踏みしめると「キュ、キュ」と音を発する砂浜でいるが~こうした砂浜は全国に数か所あるとの事。
小学生の時分はその感触と聴覚に胸躍らせて海岸を歩いたものだが、、30数年ぶりに尋ねるもまったく鳴かない。のちに剱地地区の人に話を聞くも、「地震で上流から流れてくる石英が、大地の隆起でせき止められて~石英の粉砕が海岸の浜辺までたどり着かなくなって、踏んでも鳴かなくしまった、、」と。
いろいろな箇所に影響を及ぼす天災、こうしたところにも「変化」が生じるもの。その時、人はまるで無力でいる。
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