ここのところお疲れでいる、、。
ふと空を見上げたら無数の埃がまいあがる。そう、あの日は春一番が吹き荒れたようで、、強い南風に髪を巻き上げられた瞬間、冬の終わりを悟る。
だが、また寒の戻りらしい。適応とは大変なことだ、ケチり100円の自販機を探すも、見当たらず。所用で西東京市・田無へと向かう、なかなかにでかい街で西東京市の拠点でもある。名前も実に不思議、「田無」なんていかにも田んぼだらけだったろう雰囲気だが、耳につく名称でいる。途中通った田無神社は、竜が五体いるという。いつも素通りでいたが、誘導員が立っているほど繁盛している。今年の干支が辰もあり、縁担ぎで訪れる人が多い様で知り合いも、わざわざS区から足を運び初詣をしたと。初詣、、地元神社へ行っていたが、古いお札、他社のお札だから引き取れないと、某神社に断られて、それ以来行っていないし、そうした物を買っていない。縁起物、願掛けまでもそうした狭い世界が介在するかと思うと、残念だったからだ。
田無は昔は田無市だった、郊外の住宅地に行けばいまだ古い家は「田無市」から始まる。「保谷市」と合併して「西東京市」となったようだが、、なんとも個人的に響きが良い。「東京のミッドウエスト」は「西東京市」、失礼だがその閑散具合が好き。我が家の墓がある「小平」は「小平市」だが、あそこはあそこでまた魅惑。それはバブル期に酒を飲んで手土産に大量のカブトムシを捕まえて、持ち帰ってきた父親の思い出があるからであろう。現在でも小平市にはカブトムシ・クワガタムシが大量に採れるポイントがある。小学生の自分は深夜にはゆけないから、飲み会で帰りの遅い父を「もしかしたら採ってくるかもしれない」そうした期待を胸に、入らざるを得ない布団の中で過ごした思い出がある。
田無の街を一回り、のちに知るもあの強い南風は「春一番」と知るのだが、背中を押されて追い風の、Yの団地を抜ける。この西東京市のYの団地、高校時代に海外留学を終えた同級生の女友達の、異常とまで重いキャリーケースを運んでほしいと依頼され、荷物運びとして駆り出されたことがある。かわいい子だったが、17歳当時の自分でも鉄道の階段は一歩一歩あがるのがやっとな重さ、、このYまで彼女と共に運んだ記憶がある。そんな事までも思い出す。まったく人生の折り返し地点は思い出してばかりだから参る、、と浅い眠りは中島みゆきでないが、メランコリーで構成されるから胸が切ない内容が多い。「後悔」が一番、これからのメンタルを蝕むからそうならないように頑張る、、けど中年になって気づいたことは「変化を嫌いつつあり」事。それは順応に欠くからなのだろうが、、そうならないように2倍も3倍も努力する決意であります!なんて。
用を終えて帰宅すると、テレビでフォークルの北山修氏が出ていた。いいおじいちゃん、フォークル時代のエピソードを話していたが、バックプリントのリバティプリントのボタンダウンが最高にかっこよかった。あの手はピート・シーガ-も当時よく着ていたが、北山修氏は自分にとっていつでもお手本である。、、春にはシアサッカーのボタンダウンシャツでも買いますかな、、まだ春でない春を待つどうでもいい小話。

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