2024年10月17日木曜日

武蔵野・丸八製麺所にて

 ことのほか涼しくならずに、むわりと汗ばむ陽気を今日も行く、、、。何を着て行ってよいかがわからない。朝はブレザーなんかしょい込むと、ちょうどいい感じなのだが~昼の日中は暑くて仕方がない、、。

思えば先月の能登行きと、忙しく日々が過ぎ去った。10代の事の日常と比べると3倍も、時間が流れるのが速いそれは「多忙」で片づけられるけと、いわゆる感受性みたいなセンサー鈍くなっている、年を重ねるとイレギュラーな出来事を回避する傾向がある、それを楽しまないから普通の人々演じる、、。能登行きのあの心持は久しぶりでいた、ああした感覚を何度も味わうためにも、若い心なるものを持ち続けたいと思う、、。なんちゃって。


自分は何かお礼替わりとなると、武蔵野の丸八製麺所の「油そば」を返礼の品と決めている。もう勝手なこの返礼の儀式じみたものは2008年ごろから続くそれである。先日は、職場の人に世話になったことがあり、久しぶりに三鷹の丸八製麺所へと向かう。

ここの油そば、は2000年代から通い続ける武蔵野市の製麺所であり、小売りもしているからうれしいもの。今季油そば(ポークエキス付)、180円にて販売。


けど安い!以前は150円でいたがもう15年も前の話である。2008年には「塩油そば」を販売したことがあったが(ややカレー風味だった)あれは、当時の夏限定でいた(ぜひ復活していただきたいもの)、あれは美味かった!!

ここのオーナーさんは音楽好きと見えて、店員さんはバンドTシャツを着ていることが多い(以前はバンド人間椅子のTシャツを着ていた)が、英国のメタルバンドの来日決定ポスターを張るなど、こうした麺とは全く関係ないなかで、趣向を反映する姿勢好き



できる事ならば、自分もそうしてみたいところ(野坂昭如音源を一方的にBGMとか)。結局10玉近く購入、、昨今外食は高い。この武蔵野近辺の油そばをおろしている製麺所で購入し、自宅でまったり食うのが一番理にかなったスタイルである。油そばはジャンクに食らうのが一番うまい、という話をしたからか、、後日、盛り付けた「油そば」の写真を送ってきたのでいた、、。なにやらラーメン屋でチャーシューをテイクアウトし、、おすすめのマヨネーズを乗せてめっちゃうまかったと!、、共感はうれしいね~~。私にできるお礼です、、。

自分も20代の頃にはヘビーテイクアウトユーザーでいたが、、40代に今では月一ぐらいがよろしい。みな下っ腹に付きそうで、ズボンが履けなくそれの方が恐ろしい、、、。食欲の秋だが、、年齢を考慮しつつ限定的。


2024年10月8日火曜日

見る前に跳べ~能登での活動を振り返る~

 そしてボランティア活動最終日、、活動を終える、、。


帰りは外海と言われている志賀町方面へと車を走らせる。志賀町へ下れば、そこまで被害もなく~のどかな田園風景が広がる。今回の地震は奥能登と言われる、半島の先端部が甚大な被害でいて中能登エリアはいたって普通の生活が営まれている様に感じる。この中能登エリアへ~奥能登エリアから避難した人も多いようだ。

右に海岸線をのぞめば、内海とは全く異なる風景が広がる。潮風だが、からりとしているもの。この先に千里浜という、車で海岸線、波打ち際を走れるエリアがある。

91年の能登行きの際は、剱地に向かう道中、マイクロバスで海の中に軽く入るパフォーマンスがあったが、今思えば車の足回りが塩害でやられそうだ、、。塩は驚くほど鉄を錆びさせる。

のと里山街道を上り千里浜での降り口、岐阜ナンバーの派手なアメ車が二台つらなり走行、、。これは絶対千里浜行きだと後を追い、至る千里浜


すごい!浜辺に車が入って行けるのは、そして車体が砂に沈まないのは~ここならではの砂の質であろう。ちょうどアメ車ミーティングが開催されており、幾重にも国産旧車やアメ車が連なる。自身は国産現行車で、その末端へと向かい、砂浜沿いを走らせる。

天気も良く潮風が心地よいものである、、、。砂浜の目が細かいのか、重みで沈みゆくことはない。泣き砂の浜もそうであるように、不思議な砂の性状を持つ海岸が能登エリアには多いもの。


ひとっ走りして、途中見つけた定食屋へ寄る。50年ほど前まではこのエリアにも鉄道が走っていたとか。それを思わせるモニュメントと、ここを走っていたであろう痕跡。この感覚は六角精児の「呑み鉄本線日本旅」から学んだそれか、脳裏にはニッティー・グリッティー・ダートバンドの楽曲が流れたような、流れないような。

初めて入る定食は魅力である、夜は居酒屋のようで~ものすごく小奇麗な内装でいた。

チーフはダブルのコックコートを着ていたし、その人の奥さんらしき人は、ものすごく笑顔が素敵でいた。やはり外海の刺身が食べたくて、刺身定食(¥1500)を注文。見た目も盛り付けも素晴らしい!


六角さんは鉄道の知識さることながら、こうした雰囲気の中で飲み歩き~諸国漫遊しているのかと思うと(しかも地酒を飲みつつ)実にうらやましい。酒は飲めずとも、知らない初めての土地で、労働の後にこうして刺身定食に舌つづみを打てることは~幸せの極致である。

そうして一路気合を入れて、関東方面へと車を走らすこと、約8時間


ようやくもとの古巣へとたどり着いたのである、、、。長い旅路でいたが~、困っている中でも、能登に方々の本物の笑顔が垣間見れることが多々あった。2回の能登行きでいたが、一皮もニ皮も向けた気がする、、年を重ねると新しいことをしなくなる。そうした意味合いでも、気持ちどことなく勇気わかなくとも、飛び込むことは大事だと思う。そして当たり前が幸せだと、よくよく感じるもの。

40半ばだが、ちっぽけなわが人生の、大きな転換期になったことは間違いなく、これからも積極的にこうしたボランティア活動に参加したく、体力を維持したいと思う。

2024年10月5日土曜日

「黒島天領/若宮八幡宮」・「泣き砂の浜」にて

 、、そして活動は続き、その日は夜間は勤務のため昼間は時間あり、夕方からの活動開始となる。遅く目覚めたのだが、人というものは「寝不足」になっても「寝だめ」はできず、何度も寝返りを繰り返しているのに嫌気がさし、むくりと起き上がり、車を走らせたのでいた。

特徴的な能登の海岸部に隣接する、板壁の景色が恋しくなり見に行くことに。

小学生の時分にも、都会育ちのの自分にとってはそうした景色が初めてで魅惑、海風と塩害からの対策ととうじはつゆ知らず、懐かしいかな、すすけた外壁は印象深い。

剱地もそうだが、手前の黒島天領地区へ。かつてここは北前船の中継地で、江戸時代は海の男の町、交易で栄えたエリアと聞く。が、歴史的価値高いかつての町並みも、この震災で壊滅的なダメージを受けている。街中にあった資料館も鍵がかかっており、現在は展示品を観ることができなかった。少しでもその面影を目に焼き付けたく、周辺を探索。

被害は甚大であるけれど、クロっぽい焼けた戸板外壁が当時の面影を思わせる。


山形・鶴岡の豆腐は丸い豆腐でいたが、ここ輪島市の豆腐も丸い豆腐、関東は四角だが~そうした食文化も上方(関西地方)からの影響大。そんなこと思いつつ、地区の若宮八幡神社へ。



地震の影響さることながら、鳥居など土台から落ちてしまっている、古い境内は杉の木で支えられ倒壊しないように支えられているが、、歴史のある境内なのでなんとか持ち直してほしいものだが、、。よくある大東亜戦争時の忠魂碑も根元から折れてしまっている、、。


物悲しいばかりで、こうした八幡様や仏閣巡りが好きな自分にとっては、ものすごく胸が苦しい。手を合わせて八幡様を後にしたのでいた、、。


海岸線へと降りてみると、先日の土砂災害にて流されてきた倒木やごみが山積している。そこに辿るまでには、隆起した砂浜を行かなくてはならず波打ち際に辿るに5分は要した。河川から流され海にたどり着いたのであろうが、海辺に倒木というのが見慣れない景色であり、これもまた胸が痛む。遠くでは、エンジン音がし隆起した砂浜を掘り起こす作業、前回来た時と同様に永遠に行われている、、、。人の力ではどうしようもない結果に、こうして佇むしかない虚しさ。

その後、剱地地区の「泣き砂の浜」へ足を運ぶ。字のごとく、砂を踏みしめると「キュ、キュ」と音を発する砂浜でいるが~こうした砂浜は全国に数か所あるとの事。


小学生の時分はその感触と聴覚に胸躍らせて海岸を歩いたものだが、、30数年ぶりに尋ねるもまったく鳴かない。のちに剱地地区の人に話を聞くも、「地震で上流から流れてくる石英が、大地の隆起でせき止められて~石英の粉砕が海岸の浜辺までたどり着かなくなって、踏んでも鳴かなくしまった、、」と。


いろいろな箇所に影響を及ぼす天災、こうしたところにも「変化」が生じるもの。その時、人はまるで無力でいる。



活動さなか、束の間の地元食

 明けて、大変な水害にあったにも関わらずだが、好天で透き通るような、晩夏の空。のう9月も終わりだけれど、確実に季節がハイブリットしているのは確か。

現地でのボランティア活動を終えて、昼飯は門前総持寺周辺へと赴く。

前回と違い、何軒か地元の定食屋が再開しており、ここで昼飯を頂くこととする。

少し開店に時間はやく、総持寺の境内を散歩。前回とそう変わらない面持ちであるけど、尊厳さあり、透き通る空にアカネが数匹飛ぶのを見ると、ああ秋になりつつあるんだなと。


、と境内に俳句の石碑があったんだが、、置き位置が180度回転してしまった、というもの。!ええ!とおどろいたが、1月1日の震災にて、縦揺れから表裏が変わってしまったとの事。この石は1tぐらいあるのかな、こんな巨石をひっくり返してしまう地震のすごいは計り知れない、、、。





総持寺の商店街もぽつりぽつりではあるが、何軒かオープン。どうしてもここへ来た証というか、オリジナル手土産が欲しくて探していたんだが~衣料品店、ここで北陸バスの停車場の立ち看板をモチーフにしたコースター(¥600)を購入する。ここのおばさんとしばし話し込み、自分が1991年ごろに剱地の交流会でここへ来たことを話すると「ああ~、あったね、そんなことが」と言っててくれてうれしかったなあ。「あの時の交流した人たちはどこへ行ってしまったんですかね」「みな地元を離れて、今では金沢や名古屋で世帯もって、家買って暮らしてるんじゃなかろうか」と。被災されたのもそうだが、驚くぐらいに若い世代の姿、子供の姿を観ない。少しでも協力できることは、こうした地元の商店にすこしでもお金を落としてゆくことが貢献となる、、、。

オープンしたての定食屋であったが、すでに現場仕事の作業員の方やボランティアの方で店はいっぱいでいた。自分は思い切って「ふぐ蕎麦定食」を注文。

フグのから揚げなんか食ったことが無い!のちに聞くも、この地域でのフグは、山口県のフグとは違い、小さめの個体のようでそれらを集めて~から揚げにし食するようだ。


来ました!!スペシャルな定食!長らくガムと総菜パンの生活でいたので、よだれが垂れるのを抑えつつ写真撮影。さすが寺院=そば、という流れ、サイズ・量もよろしく、メンチカツの日替わり定食もあったのだが、老い始めたこの肉体にはこうしたチョイス・流れの方が40数年使い込んだ胃にはリンクする。うまいうまい、と心の声を繰り返し~完食したのでいた。


翌日には、この定食屋で押しという「能登丼」(フレーズからして海鮮丼をイメージしがちだが、、)いしる(能登特産のいわしの魚醤、イカの魚醤もある!?)で漬け込んだ豚肉、これをアツアツのライスの上に盛り込んだもので~いわば豚肉丼、、これがうまかった。

この魚醤「いしる」は地元の人は何でも振掛けるそうだが、、苦手な人は塩辛くて、そして匂いが駄目だという、、。自分はベトナムの「ヌクマム」を愛用しているし、絶対好きだから~手土産に買って行こうと決めていたが、うっかり買い損ねてしまった。後日活動へ行く後輩に託そうと思う、、、。

すっかり腹を満たしたならば、ボランティア活動の再開である。町全体が埃っぽいのは、土石が乾き、それが舞うからであって、、その茶色い風景の中を、いつもと変わらずオニヤンマが飛び交う景色。

2024年10月3日木曜日

2回目の能登派遣

 ~と職場からの依頼を受けて、先週は二回目の能登派遣となる、、。

きっかけは先月21日に起きた豪雨水害による、浸水からなのだが~弱り目に祟り目とはこのこと、ようやく復興の兆しあるところに、今回のような天災が重なり、また振り出しに戻ってしまうのでは、、、と。知り合った方々は、大丈夫なのであろうか?「うちは全滅です」という言葉に、これは再び能登入りしなくてはと、荷物をまとめたのでいた。

おおよその経路は一度訪ねているので、想像がつくが、、いかんせ北陸道下りて七尾市に入った後の「のと里山街道」が途中までしか行けないとの情報。朝8時に出発、関越道~上信越道を下り、今回は先を急がず90分毎に休憩しつつ能登を目指す。親不知あたりから新潟県災害支援の自衛隊の車列と並走、、親不知当たりの長いトンネルを超えると富山県へと入る。


前回と違い天候が良く、広い富山米を育てる田園地帯。入善で一休みとし、その田園風景をしばし眺めていたのだ。「越中境」はおそらく新潟県と、富山県との県境。その先、富山県と石川県の県境もあるが何境だったか思い出せない、、。東京からだと9800円ほどの高速料金がかかる。

七尾市につけば安泰、いや途中から行けないとの情報でいた「のと里山街道」でいたが、意外にも穴水まで下車することなく到着。一路、輪島市を目指したのでいた。水害による被害はあまり感じなかったが~奥能登へ行けば行くほど河川が氾濫し、特に架橋にひっかかる大量の廃材だったり自然に折れて流れてきた樹木は、水害の被害の大きさを知る。

なんとなく町全体が埃っぽいのは、そうした土砂や泥が乾き、それが風に飛ばされて舞うからである。高校生が大勢道沿いを泥かきそしていてが、そこそこの暑さ、その埃からの防塵対策、みなマスクを着用し作業にあたっている。


ようやく到着、2週間ぶりの再会。9月21日の午前中の様子を伺うと、かなりの荒れた天候でいて大雨、河川もそうだが裏山から流れる、小さな川からの山水が一気に土石流の如く流れ込み、浸水。河川と山からの土砂から双方の被害を受けた、、と。能登(特に奥能登)は海からいきなり山間部であるような、奄美大島に似た地形でいて、平地が無い分、そうした山間部からの土石流も多いようで、目をやれば山崩れしているところが多々あり。

金沢方面からのボランティアの人はバスに乗り、ひっきりなしにやってくる。泥かきしてくれたり、居室内の清掃。みな裸足で作業されており、不思議と女性が多いのは母ごころか。自分のすべき、できる事をこなした終日。空いた時間を、あの前回尋ねた「猿山岬」方面へと車を走らせる、、。



!?ここへ行くまでの国道は川が並走しているのもあり、実に被害がひどい。道も寸断されており、ところどころコンクリートの地面、その下の土がえぐられたか、空洞化。穴の開いている箇所も多い、、。この近辺集落の人も非難しているようで、人影もなく照りつける太陽の元、粗削りな川の水音と、晩夏のセミが泣き叫ぶ。


「、、工事関係の人ですか?」「、、いや、猿山岬にいこうと」「、、いけないですよ、トンネル埋まってますから」前回尋ねた岬への国道は、寸断されていると。教えてくれた人に礼を言い折り返した。なんとも無情な雰囲気が漂うけど、満天の星が反比例して諸行無常だ。奥能登での活動は続く。



Jジャーエールのエールは、応援ではない。

 と、またも見つかった 虫歯治療 をしに、かかりつけの歯科がある目白辺りまで、クロスバイクで向かうのでいた、、。 先日の受診に帰り際に、、レントゲン撮ったらその影が反対側にあるとの事で、、年内に、いまある虫歯を治そうという、という、そういうアプローチ。 いかんせ、ビール代用として...